短刀 261 光興作 崎山氏所持 皇紀二千六百年二月十六日 (柴田果)
- Mitsuoki(Shibata Ka) -

刃長 七寸八分五厘弱 / 23.8 cm 反り 内反り
元幅 22.5 mm 元重 5.4 mm
先幅 19.0 mm 先重 物打4.6 mm
目釘穴 1個 時代 昭和15年 (1940)
The early period of Showa era
鑑定書 保存刀剣鑑定書 登録 平成29年2月16日 兵庫県登録
附属 ・銀はばき
・白鞘
価格 880,000 円(税込)



本名、柴田政太郎。明治17年、秋田県雄勝郡西馬音内(現、羽後町西馬音内)に生まれました。生家は代々続く素封家で、父の柴田養助氏は30年間羽後町長を務めています。
14歳頃から篆刻(印章の製作)を始める。長じて果の号を用い、その作品は犬養毅や張学良(張作霖の長男)らに愛用されるほどであり、犬養は「わが筆硯のあるところ果氏の印なかるべからず」とまで賞賛したと言います。
本間順治(薫山)先生とも交友があり、本間順治先生使用の「薫山」印、及び「本間順治」印はいずれも柴田によるものだと言います。
多芸多彩の人で知られ、一芸三年と称し剣道四段、柔道三段、秋田喜多流謡曲の重鎮であり、太鼓、書、俳句(俳号 紫陽花)などで活躍。発明家としての面も持っており、割り箸製造機の他30点に上る特許を取得。また秋田県儀も一期務めました。
思想家安岡正篤の影響を受けて尊敬しており、安岡が政太郎のことを「秋田の地に莽々蒼々の漢あり、これを木鶏と名づく」と雑誌に書いたことから木鶏を号にしました。

祖父柴田多助氏の刀剣収集の趣味に惹かれて早くから鍛刀を行い、戦前戦中を代表する刀工となる。 古文献をあたり鎌倉時代ごろに絶えたとされる鍛刀法を復活させたとされ、作刀では短刀が多く、刀は少ない。 昭和9年(1934年)の帝展に2位入選を果たす。帝展出品時には無名であったにも関わらず非常に出来が良かったために、左文字の作に自分の銘を切った盗作であるとまで言われ、かえって名前が知れ渡りました。
翌年には新作日本刀共進会展で、出品五百点中の特別最優等賞を受賞。その後も、総理大臣賞、特別賞、陸軍大臣賞など数々の受賞を果たし、皇室へ献上刀を納めるなどの栄誉を得、昭和12年(1937年)1月には大日本刀匠協会より「国工」の称号を授与されました。
昭和17年(1942年)に栗原彦三郎が定めた現代刀匠の暫定位列表「聖代刀匠位列表」でも、最高位である「神品の列」に入っており、昭和21年(1946年)には勅令第三〇〇号銃砲等所持禁止令」による第一回刀剣審査委員も務めました。
戦中には陸軍受命刀工も努め、「果」とも銘切りました。長男の柴田清太郎氏も刀匠として知られ、「昊(こう)」の銘を切ります。

名物「小夜左文字」を所持していたことで知られ、愛するあまり自らの茶室に「小夜左庵」の庵号をつけている。
彼が最も愛していたのが名物小夜左文字の短刀で、これによって小夜左庵と号していた。そして、これに並ぶものに古備前正恒、粟田口国吉(小夜左庵国吉)の太刀があり、三口ともに重文です。(本間順治「懐かしい人々」)
昭和28年(1953年)3月12日没。

この短刀は、日本の実業家、大同海運社長、大日海運会長を務め、愛刀家としても数多の名刀を所有していた崎山好春氏の注文によって鍛えられたもので、この度初めて崎山家から世に出る、崎山好春氏旧蔵の名品の一振です。
※東京都知事を努めた石原慎太郎、俳優石原裕次郎兄弟の実父石原潔の前妻である勝子は、崎山好春氏の妻の姪にあたります。

平造りで棟を三ツ棟とし、姿態頗る良く上品で、平肉豊かに付き、地鉄は小板目肌がよく練れて詰み、地沸ついて精美であり、細かな地景が鉄の奥に、さも水底に見える砂紋の如く見られ、刃文は匂口明るく直刃を焼き上げ、刃中には金筋が見られ、刃縁は地鉄に絡んだ微細且つ豊かな働きが顕著に見られ、帽子は直ぐに丸く返っています。

崎山家より出ました本刀は、長らく手入れが不十分であった為、やや曇った状態でしたが、この度当店にて上研磨を施しました。研ぎ上がったばかりの地刃の冴えを存分にお楽しみ頂けます。

裸身重量145グラム。


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