No.36
富士講藁蛇図小柄
光朝(花押)<菊岡光朝>
Mitsutomo
全長:9.72 cm / 幅:14.5 mm
重さ 31 g
附属 : 桐箱
¥700,000 (税込) 
特別保存刀装具鑑定書


菊岡光朝は光行の子として安永4年(1775)に江戸の神田で生まれました。先代の通称であった利藤次を襲名。江戸神田鍛冶町住し、良工として名高い金工ですが、文化10年(1813)4月22日に38歳という若さで没し、浅草田島町の誓願時寺内の林宗院(現在の東京都練馬区)に葬られました。戒名は常光明摂信士。

古代より崇高な山であった富士山は、神体山(即ち禁足地)であり、麓にて祭祀が行われ、遥かにその御姿の見える場所からも遙拝されてきました。時代が下り、仏教の伝来を経て、また修験道などの影響を強く受け、修行を通して超自然的な験力を得ることを目的に、室町時代には庶民の間でも信仰登山が盛んになっていきました。
晴天に遥かに望む富士へ行きたい、登って拝みたいと願う者が増すのは当然のことでしょう。入山者の増加につれて険しい山内に踏道も出来て、庶民も登頂を目指せる状態へ近づいていきました。しかし、江戸から吉田までは健脚でも片道3日、吉田から頂上までは少なくとも往復2日、合計8日間の旅(運よく好天に恵まれた場合)は、現在からは想像もできない程の時間と費用がかかりました。そこで、庶民に信仰が広がるにつれて、お金を集め代表を選び皆の祈願を託す「講」の仕組みを利用するに至ったことは想像に難くありません。 こうして、近世には江戸を中心に各地域で「富士山信仰のための講 〜富士講〜」が成立しました。

麦藁細工の蛇は、宝永年間(約300年前)駒込の百姓喜八という人が夢告により、疫病除け、水あたりよけの免符として広めてから、霊験あらたかと評判になり、そうしたことから江戸中の浅間神社で頒布するようになったと伝えられ、浅草でも出されるようになりました。
古川柳に

富士土産舌はあったりなかったり

というものがあり、雑踏で麦藁蛇についている赤塗りの附木で出来た舌をどこかに落としてしまったという意味の句で、参詣者の賑わいがわかります。
昭和初期頃までは境内において植木市の風物として頒布されていましたが、戦後には姿を消してしまいました。
そもそも蛇という生き物は、古来日本において水神である龍の使い(仮の姿)であると考えられ、水による疫病や水害などの災難から守ってくれると信仰されていました。水は人間の生活に決して欠かせない命の源であり、蛇をモチーフにした麦藁蛇を水道の蛇口や水回りに祀ることにより、水による災難から守られ、日々の生活を無事安泰に過ごせるとされています。
この失われかけた風習・文化を保守し、後世に継承していくことを目的として、平成10年から麦藁蛇を浅間神社【お富士様】の御守りとして、5月、6月の植木市と、元旦から1月3日までの間に頒布が行われています。

この小柄は赤銅の下地に丁寧に魚子が打たれ、まんが日本昔話にでも登場しそうな、なんとも愛嬌ある面構えの藁蛇を、卓越した彫金技法により繊細且つコミカルにあしらった光朝の逸品。重要刀装具も狙える名品です。