刀 492
無銘(大道 大和郡山藩柳沢家伝来)
- Mumei(Daido【Omichi】) -

刃長 二尺九分二厘 / 63.4 cm 反り 五分三厘 / 1.6 cm
元幅 29.4 mm 元重 6.7 mm
先幅 23.6 mm 先重 5.2 mm
目釘穴 3個 時代 室町後期天正頃
Production age 『AD1573〜1591』
鑑定書 保存刀剣鑑定書
特別保存刀装具鑑定書
登録 昭和26年3月9日 東京都登録
附属 ・白鞘
・素銅地金着はばき
・黒蝋色塗腰刻鞘半太刀拵
価格 \ 1,980,000(税込)



室町末期から新刀期にかけて、美濃には大道を名のる鍛冶が数工居り、中でも陸奥守大道は有名で、経眼する年紀には天正2、4、13、18年があります。
また、三品派の祖として伊賀守金道、越後守金道、丹波守吉道、越中守正俊の四兄弟の父としても広く知られる大道は、関室屋兼在系の刀工と伝え、初銘を兼道と切り、はじめ関の地で鍛刀します。永禄12年、正親町天皇より「大」の字を賜り、「兼道」より「大道」と改めますが、その頃の銘文に「大兼道」「陸奥守大兼道」と切ったものがみられ、「陸奥守」も同時期に受領したものと推察されます。
美濃系鍛冶は不思議なことに、ある時期を境に一部の鍛冶を除いて名に“兼”の字を用いなくなります。例をあげますと“兼常”が“政常”へ、“兼房”は”氏房”へと改銘していることから、兼道も初めは大兼道から“兼”の字を略して“大道”に改めたものと推測されます。
その後は岐阜に移り、天正18年頃、堀川國広が関東へ下向の際、濃州岐阜の地で大道と合作した「濃州岐阜住大道 信濃守國広」と銘ある作品が遺されており、両者の交流を窺い知ることができます。
文禄2年頃になると、四人の子供とともに上洛し、その後は山城の地に定住して鍛刀し、三品派を誕生させます。

本作は、地鉄よく練られて詰み、淡く映り立って肌立ちごころに、匂口明るく冴えた刃を大湾れ調に焼き、刃中頻りに互ノ目足や互ノ目丁子足が入り、大道極めの作としてはかなり出来が良く、附属する黒蝋色塗腰刻鞘半太刀拵は銀の一作金物で、普段は腹帯金を閉じ合わせ、栗形代わりにして刀として帯び、有事の際には腹帯金を開いて太刀として佩けるように造られています。
また、腰の刻みは鯨の鬚を巻いた贅沢な造りで、片手巻が施された柄には柳沢花菱紋の目貫が燦然と輝き、今尚大和郡山藩柳沢家の威光を放っており、白鞘は大名の蔵刀によく見られる、柄のみ後補の作となっています。


柳沢家概略【ウィキペディアより転載】

柳沢氏は甲斐源氏の一族である甲斐一条氏の後裔を称し、戦国期には甲斐守護武田氏の家臣となり、甲斐国北西部に土着した辺境武士団・武川衆の一員となった。その後天正8年(1580年)、柳沢信兼が上野国膳城攻めの際に軍令を破り切腹となると、武川衆・青木氏の出身で横手家を継いでいた横手信俊が信兼の名跡を継ぎ、柳沢信俊と名を改めた。武田氏滅亡後、信俊は武田遺臣として徳川家康に仕え、家康の関東移封に伴い武蔵国鉢形に所領を得た。 信俊の死後、嫡男の安吉が家督を継ぎ、初め江戸幕府旗本となるが、元和8年(1622年)に駿河大納言徳川忠長家臣となり、忠長改易の後は浪人となった。しかし寛永17年(1640年)、安吉は幕府より再出仕を命じられ、宝蔵番や本丸広敷番頭等を歴任し、430俵取りの旗本となり、柳沢宗家としてその後も存続した。 また、安吉の次男吉次も慶安3年(1650年)に出仕を命じられ、徳川家綱付き小十人となった。子(養子)の信尹の代にはたびたび加増され800石取りの旗本となり、その後も代々勤仕を続け、明治維新を迎えた(柳沢吉次流柳沢氏、柳沢八郎右衛門家)。

一方、信俊の四男安忠は兄・安吉と同様に、徳川忠長家臣を経て浪人となるが、その後館林藩主の徳川綱吉に仕えた。子の吉保は5代将軍となった綱吉に重用され、延宝8年(1680年)に小納戸となったのを皮切りに、その後側用人、老中格、大老格に就任し、当時の幕政を主導した。また、吉保は老中格就任と同年の元禄7年(1694年)に武蔵国川越藩7万石の藩主に封じられて初めて大名となった。同14年(1701年)には松平姓を許され、宝永元年(1704年)には、それまでは徳川家一門のみが歴代藩主として就いていた甲府藩15万石の藩主となった。宝永6年(1709年)に綱吉が死去すると、吉保は政治状況の時流を賢く判断して隠居し、嫡男の吉里に家督を譲った。その際に、吉保の四男経隆と五男時睦はそれぞれ1万石の所領を内分分知の形で与えられ、甲府新田藩主となった。 享保9年(1724年)に甲斐一国の幕府直轄領化に伴い、大和国郡山藩に転封となると、吉里は柳沢氏郡山藩15万石の初代藩主となった。また、吉里の郡山藩への転封に伴い甲府新田藩は廃藩となり、新たに経隆は初代越後国黒川藩1万石の藩主に、時睦は初代越後国三日市藩1万石の藩主となった。以後郡山藩をはじめとして3藩ともに明治維新まで存続した。
明治17年(1884年)に制定された華族令に伴い、最後の郡山藩主保申は伯爵に、最後の黒川藩主光邦と最後の三日市藩主徳忠はそれぞれ子爵となった。
なお、柳沢家と武田氏宗家の高家武田氏とは密接な関係にあり、吉保は武田信玄の次男龍芳(海野信親)の子孫を高家武田家として復活させている。また、保申の次男信保は高家武田氏の養子となって当主を継ぎ、以後血筋が途絶えることなく現在に至っている。

裸身重量523グラム。 鞘を払った重量773グラム。


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